【書評No.36】この国のかたち(4) 司馬遼太郎の想いにふれよう!

出張する際の機内では司馬遼太郎の「この国のかたち」を読もうと決めていて、今回、第4巻の読後感想です。

飛行機はJALを使っているのですが、JAL機内で流れているテーマ曲が久石譲さん作曲のものからか、毎回「坂の上の雲」のテレビシリーズのエンディングテーマを想起します。

さて、「この国のかたち(4)」のメインテーマは統帥権です。

本シリーズではめずらしく、4回にわたって連載されており、司馬遼太郎の強い想いを感じます。ちなみに、第1巻のテーマにもなっていました。

司馬遼太郎は敗戦を経験しており、なぜ日本という国が無謀な戦争に突き進み自ら破滅の道を選んだのか、このどうしても解せない疑問を解決したいとの思いが、彼を歴史の探究に向かわせたといいます。

そして、この国のかたちを連載する中で得た答えが、統帥権だったと。

「この国のかたち」は、1986 年から1996年までの10年間にわたって、文藝春秋にて連載された作品です。司馬遼太郎が描く日本(人)論で、全6巻から成り立っています。

この本(記事)はこんな人におすすめ
  • 日本を代表する歴史作家、司馬遼太郎に興味のある方
  • 日本とは何か。本物の日本(人)論に触れたい方
  • 日本の歴史が大好きな方

この記事を書いているGeroge(父)は、都内在住のサラリーマン。通勤電車のほぼ全てを読書に費やし、年間100冊程度の本を読んでいます(プロフィール)。また、家庭菜園も10年くらい楽しんでいます。

\ それでは、いってみましょう

目次

統帥権

日本を別の国に変えてしまった統帥権

現在の国家は、長いその歴史の所産であることはいうまでもないことであり、日本も例外ではありません。

日本史を彩る諸政権のうち豊臣政権時代の朝鮮出兵を除けば、日本は、概ね国民や他国の人々に対して穏やかで柔和だったと司馬遼太郎は述べています。

ただ、昭和5、6年ごろから敗戦までの十数年間の日本は、まるで別の国にでもなってしまったかのようで、自国を滅ぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた。

本質的には穏やかで柔和であるはずの日本が、1905年以降のわずか数十年で様変わりし、今日的には太平洋戦争当時の異常な状況が日本そのものであるかのように内外に印象付けられている。

何が原因でこのような結果を産んでしまったのか。

その答えが「統帥権」であると、司馬遼太郎は断言しています。

一体、統帥権とはどういった性質を持つ概念なのでしょうか。

統帥権とは

統帥権とは、軍隊を動かす権限(国軍に対する命令権)のこと。

1878年(明治11)の参謀本部設置によってその独立が保障され、大日本帝国憲法第11条において、「天皇が陸軍・海軍を統帥する」(原文:第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス)と定められていました。

大日本帝国憲法第11条では天皇の大権とされた統帥権ですが、その内容については軍と政府、あるいは憲法学者の間で解釈に差があり、最終的には統帥権が拡大解釈され、太平洋戦争を経てかつての日本を滅ぼすに至ります。

次からは、統帥権がかつての日本を滅ぼすに至った経緯を述べていきます。

幕末から見える統帥権の曖昧さ

江戸時代の統帥権は征夷大将軍である徳川将軍にあった。しかし、長州藩が京都を犯したことを理由に実施した長州征伐の際、統帥権があるにもかかわらず徳川将軍自身が総大将となることはなく、尾張徳川家の元当主である徳川慶勝(よしかつ)を総大将に任命した。

このような代理主義をとった理由は、幕府が自身の手を血で汚すことを恐れたためと言われています。

また、鳥羽・伏見、戊辰戦争の際も、徳川慶喜は統帥権を行使することはなかった。

翻って、薩摩藩においても、藩父である島津久光の知らぬ間に、家臣である西郷隆盛らの手で勝手に明治政府が樹立されており、長州藩主においても同様だった。

このように、日本という国の軍隊の統帥権のあいまいさは、すでに幕末からも見られていたと司馬遼太郎は述べています。

George(父)

日露戦争以降の統帥権をめぐる問題の萌芽を幕末に見るというのは、幕末に詳しい司馬遼太郎独自の視点であり、とても興味深いです

明治初期の統帥権

最初に断っておくと、大日本帝国憲法の発布は1889年(明治22年)であるため、明治初期には統帥権の定めはありませんでした。

然は然りながら、明治維新が王政復古(武家政治から君主制への移行)として幕を開けたことを考えると、軍の統帥権がこれまでの徳川家から、天皇へ移行されたと考えるのが普通だと思います。

そのような状況で、明治政府は世界的にも類を見ない軍隊を持たない政権として生まれました。このため、徴兵制によって軍を確立するまでの間は、明治維新を主導した薩長土の3藩が合わせて1万の藩兵を献上し、これを天皇直轄の直轄軍とした経緯があります。

この直轄軍(=武力)を後ろ立てとして、明治4年には廃藩置県を断行。これにより、明治政府による中央集権化が進んでいきます。

その過程において明治政府は西欧風の徴兵制(国民から兵を募集する)の確立を進めるのですが、これに不満を持つ西郷隆盛とそれに属する薩摩閥の兵士は官職を辞して帰薩してしまい、後の西南戦争につながっていくのです。

この事象を捉え、司馬遼太郎は「明治初期から天皇の統帥権などは存在せず、この統帥の乱れが隔世遺伝のように昭和の陸軍に遺伝した」、「昭和6年、7年に暴発を繰り返し、国を滅ぼすに至った昭和陸軍の始まりは、明治初期の薩摩系近衛兵の政治化であった」と主張しています。

George(父)

軍の統帥権すら定義できていなかった時期に欧米列強に侵攻されていたらひとたまりもなかったであろうと背筋が凍る気がしました……
明治は薄氷を踏む状況であったことがよくわかるエピソードです

統帥権が暴走するに至るまで

西南戦争後、その論功行賞に不満を持った近衛砲兵第一大体の兵が大蔵卿・大隈重信の館を襲撃する反乱が発生。

これに懲りた陸軍卿・山縣有朋は、明治15年、統帥の意味を明らかにすべく「軍人に賜はりたる勅諭」(軍人勅諭)を起草。

「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」とし、統帥権は天皇にあることを明確にした。

これが、明治22年の大日本帝国憲法 「第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の原案となっています。

この軍人勅諭と大日本帝国憲法により、少なくとも明治時代の間は軍隊のあり方と統帥権が常識的に作動した。

昭和に入ると、この統帥権が政府や議会を常に超越するとする異常な拡大解釈が進行することとなる。

その根拠は、明治11年に認められた、統帥権には「維握上奏」という戦時においての作戦の秘密は議会等を通さずに天皇へ直接上奏することができるとする権利が付随するというものだった。

戦時はともかく、平時の軍備においても統帥権を背景に軍が政治や議会の統制の外で行動することになり、最終的には自己破滅的な戦争へ突き進んでいくことになる。

統帥権の名の下に陸軍・参謀本部は何をやろうとも自由となってしまった。

満州事変、日中事変、ノモンハン事件など、自己破滅的な戦争へ突き進む直接的な原因となった出来事は、すべて「維把上奏」を拡大解釈した統帥権の濫用にあり、敗戦までの日本はまことに馬鹿げた「統帥権」国家であったと司馬遼太郎は述べています。

George(父)

統帥権主義者よりもはるかに愛国者であったにも関わらず国のために尽くした政治家は「統帥権干犯」として殺された。
文民統制がいかに重要であるかを痛感します

まとめ

この国のかたち第4巻は、統帥権に関するお話がメインでした。

最後に掲載されている「日本人の20世紀」というタイトルでは、司馬遼太郎が口述した内容をベースに日露戦争勝利かから昭和の敗戦までが時系列でわかりやすく解説されている部分もあり、読み応え抜群の巻となっています。

自分が学生の頃は、あまり明治以降の歴史について学校で学習した記憶が乏しいこともあると思いますが、1つ1つの内容が心に沁みました。

けー(中1長男)

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この記事を書いた人

40代都内サラリーマン🧑‍💼 妻1人、子供3人の父
新しいもの好きで飽きっぽい性格。人生とことん楽しむために、仕事も頑張る
座右の銘は「知らぬが仏、忘れるが勝ち」
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