この国かたち(2)の読後感想です。
「この国のかたち」は、1986 年から1996年までの10年間にわたって、文藝春秋にて連載された作品です。司馬遼太郎の日本(人)論で、全6巻から成り立っています。
ぜひ、前回記事(「この国のかたち(1)」)についてもご一読いただけれると嬉しいです。
昔から、司馬遼太郎の本は冬休みとかお正月などの寒い時期に読んでいた気がします
自分の大好きな司馬遼太郎の想いに触れながら、感想など書き連ねます。
- 日本を代表する歴史作家、司馬遼太郎に興味のある方
- 日本とは何か。本物の日本(人)論に触れたい方
- 日本の歴史が大好きな方
\ それでは、いってみましょう
2巻は江戸の話が多い印象を受けました。相変わらず示唆に富んでいる司馬遼太郎の日本(人)論が展開されています。
天領と藩領
これは江戸時代の話。
江戸時代は日本全体で3,000万石といわれてますが、そのうち800万石が幕府の直轄領。このうち400万石は旗本領(徳川家の家臣で1万石未満)。したがって、幕府は、残りの直轄領400万石から税収によって運営されていました。
直轄領の税収は四公六民といって、収穫したお米の40%を年貢として収めるのが基本。幕府財政の厳しさが伺えます。
江戸幕府は結構厳しい予算で切り盛りしていたように見えるね
項目 | 江戸幕府 |
---|---|
国民所得 | 3,000万石 |
直轄領(旗本領除く) | 400万石 |
税率 | 40% |
税収 | 160万石 |
国民所得に占める税収の割合 | 5.3% |
ちなみに、2020年度の国民所得に占める国税負担の割合は、地方税や消費税、資産課税等含めて28.9%となっているよ(財務省HP・所得税など(個人所得課税)に関する資料より)
なお、社会保険料まで含めると47.9%にはね上がります。社会保障が皆無だったであろう江戸幕府と比べるなら、28.9%と比較するのがイメージを掴むうえでの正解のように思えます
このように、少ない税収で切り盛りしてきた幕府の財政は逼迫していて、度重なる財政改革によってなんとか運営していたというのが実態でした。
中興の祖と言われた8代将軍徳川吉宗も5公5民まではやらなかった
一方、大名領は一定の武力を保持したり、幕府指示による大名行列、治水等の公共事業に駆り出されたため、非常に物要り。税率はなんと8公2民。収穫の8割を大名に収めなければならなかったとのこと。
農民のことを考えたらいっそのこと全て天領にしてしまった方が良さそう
それでも、司馬遼太郎がこの江戸期の幕藩体制で良かったといいます。
理由は2つあります。
1つには、明治以前が全部天領であれば、19世紀あたりにヨーロッパ勢力によって植民地にされていた可能性が高かったこと。
二つ目は、諸藩には武士人口が多く、武士といういわば形而上的な価値意識を持つ階層が実利的的な農民、商人に対して一種の規律を与え、明治初期から大正の間に旧諸藩の地が有能な人材を出し続けることとなったこと
戦国時代の武士という戦力(軍隊)が大名の存続によって形こそ変え、江戸期も存続したことが外国勢力からの侵略の抑制になったし、庶民の間の規律が、江戸時代という300年の平和を維持したことの源泉だったんですね。
土佐の場合、肥後の場合
藩を跨ぐとまるで異なる国であったといわれるくらい多様性に富んでいた江戸時代ですが、特に土佐(高知県)と肥後(熊本県)について書かれている部分がとても興味深かったです。
土佐は、戦国時代の長宗我部氏の統治して以来、農民が戦時には武士を兼ねる「一領具足」という体制が根付いていて、ここでは「武士=農民」。もともと「平等である」という気質が染み付いていました。
ここに、関ヶ原の戦いで改易となった長宗我部氏に代わって、縁もゆかりもない山内氏が統治を任されてしまった。
これが、土佐藩における農民と藩(山内氏)の長い敵対の歴史につながります。
山内氏が土佐に赴任した際、長宗我部家の旧臣が農民となったことを過度に警戒してしまい最初から軍隊を作って入国しました。これによって敵対の構図ができてしまい、一揆の発生と鎮圧を繰り返したという流れです
幕末には坂本龍馬という英雄を輩出し、明治3年には全国に率先して「諭告」という市民平均論(人間は皆平等)を宣言した独特な藩となったのにはこういった背景がある。
当時では相当過激(奇抜)な思想だったようですが、藩の歴史を辿ってみるとなるほどなと思います。
一方、豊臣政権時代に「肥後は難治の国なれば」といわれた現代の熊本県。
戦国時代にあっても52人の国人が地侍・百姓を従えて国中に割拠していた。
そんな肥後は、佐々成政が統治するも検地が強行されたことにより一揆を誘発するなど失敗。
しかし、その後に統治した加藤清正は素晴らしかったといいます。
加藤清正は、もともと小世帯(3千石)だったため、肥後に入るとまず、肥後人や佐々の遺臣を大胆に採用するなどし、国人の懐柔に努めました。さらに、農土木事業の展開により灌漑面積を拡大し百姓の次男・三男に農地を与えました。
これにより、荒くればかりの豪族たちも昔を懐かしむことをしなくなり、肥後一国が安定するようになったとのこと。
加藤清正は勇猛な武将という印象しかなかったけど、熊本城の建築や大規模な治水工事など、熊本の基礎を築いた人物として地元でとても慕われています
土佐と肥後。江戸時代が多様性に富んでいた背景が良く伝わってくるエピソード。多様性については、「多様性の科学」が詳しいので、こちらの記事もぜひ読んでみて
金
「金」。お金ではなくてゴールドのことですが、世界が金を求め世界中で争っていた時にあっても、日本人は金に鈍感だった。
そもそもゴールドのことを「金」と区別して呼称していた風もなく、非鉄金属を総じて金属(かね)と読んでいたとのこと。
「金(ゴールド)」のことをしっかりと区別し、「黄金(こがね)」と呼び出したのは仏教が伝来したと言われる552年あたり。
この金に対する無頓着さについて、「我々の先祖はおおらかに暮らしていた」と表現する司馬遼太郎のセンスが大好きですw
とはいっても、金が日本の多様性をもたらした根本であると司馬遼太郎はいいます。
日本は外国に支配されたことが戦後7年間を除いてなく、基本的には、留学によって外国の文化や技術を摂取してきた。
そのルーツは、金の力によって成し得ることができた朝貢貿易や遣唐使にまで遡ります。これにより大陸から多くの仏像や書物などを入手することができた。
江戸期にオランダが長崎に執着したのも金の魅力に惹きつけられたからで、これにより蘭学が大きく発展しました。
マルコポーロが日本は黄金の国だといったのも間違いではなく、実際に日本では金がたくさん採掘できたんですね。
まとめ
この国のかたちの第2巻は、江戸時代の話が多かったです。江戸時代の多様な文化に触れることにより、また日本(人)に対する理解が進むとともに、興味関心が広がる内容でした。
司馬遼太郎が徒然なるままに書いてる感じがとても面白く魅力的です。
ぜひ、読んでみてください。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました〜。
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